造形作家としての天野可淡
作為造型藝術家的天野可淡(1953-1990)

押井 守[映画監督]★インタビュー  

 可淡さんの人形は1990年代の終わりから写真集を通じて知ってはいたのですが、実際の人形をはじめて拝見したのは東京都現代美術館での「球体関節人形展」(2004) の企画をすすめていた時です。ちょうど「イノセンス」という映画の公開を控えていて、「人形」とか「ひとがた」に対する関心が重なった時期でもあります。  

 我大概是在90年代快要結束時,透過寫真集認識可淡人偶的,但實際上、親眼拜見可淡的作品,卻是我在東京都現代美術館進行「球體關節人形展」(2004)企畫的時候。剛好是「イノセンス」準備上映,各界開始對「人形 (人偶)」和「ひとがた」等議題引起關注的時期。

※「ひとがた」:人形的另一種說法

 そもそも人形に対する自分の興味の原点を遡れば、学生時代に遭遇したハンス・ベルメールの人形写真に行きつくわけですが、この頃から僕は、人形に対する興味の持ち方がまっとうでなかったと思っています。はたしてベルメールの球体関節人形は人形なのかオブジェなのか、という問いがあるわけて、ベルメール自身、人形作家というよりは写真家であり画家ですよね。人形自体をつくる事が最終目的ではなく、自分のイマジネーションを表現する素材としてつくったわけで、僕も同様な視点で人形への関心を抱き続けてきました。

 若要追溯我本身對人偶興趣的起點,那應該是我在學生時代遇見的
Hans Bellmer (1902-1975) 人偶的寫真作品,我想就是從那時候開始,我對人偶有了異常高度的興趣。也存在像 " Bellmer 的球體關節人形到底是人偶呢?還是創作的目的、對象而已?" 這樣的疑問,可是與其說 Bellmer 是人偶作家、不如說是攝影師或是畫家來的更恰當吧,製作人偶並不是最終目的,而是把它作為一個 "表現自己想像力" 的素材之一,至於我也是一直抱持著同樣的觀點。

※オブジェ:object/創作的對象、題材  

 「球体関節人形展」に出品していただくのは全員現役の作家さんという基本方針だったわけですが、80年代以降の日本の球体関節人形の展開やこのジャンルの活性化に果たした役割・影響を考えると、可淡さんの人形作品は絶対に不可欠であるという結論で、ドール・フォーラム・ジャパンの小川さんと可淡さんの人形が保管されているご実家を訪ねることになりました。
 
 「球體關節人形展」裡展出的作品,基本上是以現役作家的作品為主,但考慮到80年代以後,對日本球體關節人偶激起這一領域發展的腳色及影響,可淡的作品可說是絕對不可欠缺的一環,於是我造訪了保管
DOLL FORUM JAPAN 的編輯小川小姐和可淡作品的老家。

 それまで僕は写真集を通してしか知らなかったわけですが、遺作をふくめ新旧かなりの数の実作品と出合ったわけです。人形ばかりでなく、オブジェや絵画も可淡さんはたくさん遺していて、しかもかなり大きな作品なわけで、あらためて彼女の創作エネルギーの強さに驚かされましたね。

 在這之前,我只能通過寫真集了解可淡的作品,但在那邊,我實際見到了包含新舊相當多數量的遺作,不單是人偶,可淡也遺留了為數不少的創作物和繪畫作品,而且因為是相當大的作品,讓我重新為可淡創作能量的強度感到吃驚。

 それで僕は天野可淡さんという人は実は一般的にいう人形作家、人形師というよりも基本的に造形の人だったのではないか、という認識を持ちました。かといって可淡さんの作品が現代的な文脈で芸術かといえば、現代芸術の大半が言語によって支えられていることを考えると、手なりで産み出される可淡さんの作品はそういう指向性ではなかった、と思います。もちろん作品の背後には強い物語性を持っているわけですが。

 所以我對天野可淡小姐的認識,不是一般所謂的人偶作家或是人形師,而是一位造型藝術家。雖說如此,但若以現代性的定義來判斷可淡的作品是否為藝術的話,在考慮到現代藝術大半部分可說是以語言做為支撐這點來看,可淡自然而然創造出的作品,我認為並不具備那樣的方向性。當然在她作品的背後也是有很強烈的故事性。

 可淡さんの場合、その他の作品を知ってみると球体関節人形は彼女の創作活動の一部と考えべきではないか、とも思いましたね。ファンタジックなモチーフの作品群が写真集を通して突出的にカタンドールのイメージを広めたわけですが、オブジェ作品も非常におもしろいと思います。実はどの写真集にも絵画作品や舞台用のマスクやオブジェ作品が収録されているわけで、残念ながら「球体関節人形展」では、展覧会の性格上、可淡さんのこうした活動の全貌を紹介する事はかなわなかったわけですし、また不可能だったと思います。

 我想看過可淡其他作品的人,應該也會認為球體關節人偶僅是她創作活動的一部分吧。幻想式的作品透過寫真集突出的拓展了可淡娃娃給人的印象,人偶之外的作品也非常有趣。其實不管哪本寫真集,應該都收錄了可淡的繪畫、舞台用的面具和其他作品,但可惜的是在「球體關節人形展」上,因為展覽會的性質,沒辦法像這樣向大家介紹可淡創作活動的全貌。

 それてあらためて天野可淡という作家の創作活動の外縁を目の当りにして、とりわけ僕の関心を引いたのは、骨格系のオブジェですね。僕らのようなアニメーションや映画の仕事では造形作家さんつきあうことが多いのですが、職業柄みんな共通して骨格とか関節とか必然的に人間のディテールに対する関心が強いし観察が深くなるんです。しかしそれを突き詰めていくうちに何人かの作家は本来機能性のかたまりである関節を、逆にその機能性・実用性を失った抽象的な器官として表現したりするようになるんですよ。実は可淡さんのディフォルメされた骨格系のオブジェを見ているうちに、もし彼女がご存命だったら、人形とは別の方向へその後創作活動の領域を移行していったかもしれないな、という気がしたんです。

 重新來看可淡創作活動的外緣,其中特別引起我注意的,是關於骨格題材方面的作品。像我們這樣從事動畫和電影的工作者,常常有和造型師接觸的機會,因為在職業性質的共通性上,必然會特別去觀察、注意人體的細節,像是關節、骨頭等等。但若要深入探討的話,好像也有些作家,反而是把本來有著功能的球形關節,將這些功能和實用性去除,用抽象的器官來表現喔。事實上在看到可淡骨骼變形題材的作品時,我心想若她還在世的話,之後說不定會從人偶轉向別的創作領域也說不一定呢。

 僕にとって可淡さんの作品の魅力は、狭義の人形という枠に収斂されない創作領域の曖昧さとか混沌の大きさみたいなところがあって、可淡さんのフォルムとかディテールに対する関心のありようを見ていると、それは僕が知っているの造形作家さんと共通するものが確実にある、と思えるんです。

 對我來說,可淡作品的魅力,是不受限在狹義的人偶定義裡,擁有曖昧且宏大的創作領域,還有可淡的創作形式、對細節的要求,我想這些和我所知道的造型藝術家的特質,確實十分相似。

 しかしながら僕が、彼女は人形作家というよりも造形作家だと断じたとしても、彼女の死後、読者が作品集を通じて彼女の人形を知ったとすれば必然的に天野可淡は人形作家だと認識することになるのでしょう。それはそれでいいのかもしれない。

 然而,不管認為可淡是人偶作家也好,甚至是造型藝術家也好,在可淡死後,通過寫真集認識可淡的讀者,自然是對可淡抱著 "人偶作家" 這樣的認識。我覺得這樣也不錯。

 可淡さんの人形ファンの多くは女性だと思うのです。やはり僕が好きな辻村寿三郎さんとか四谷シモンさんの人形とは個性がかなり異なるわけで、彼らの人形は物語性も持ってはいるけれども、一方である種の抽象性とかがあってやはり男性がつくっている人形であると思うんです。そういう意味では僕が一番しっくりくる人形というのは吉田良さんの人形ですね。また良さんの場合写真に撮るという次ぎの表現の舞台も踏まえているわけですし。作者によって視線が制御された作品として成立している気がします。もちろんどんな作品にも作家の意図を超えた何かが入り込んでしまうわけで、100%制御できるはずはないのですが。可淡さんの人形が吉田さんによって撮影されたことによって見えてきた部分も大きかった気がします。

 我想可淡迷應該以女性為多數吧。果然和我喜歡的辻村寿三郎先生、四谷シモン先生的人偶在個性上有很大的不同,他們的人偶雖然也是有所謂的故事性,但在一方面擁有某種抽象概念,我想也是男性人偶作家的作品擁有的特徵。就這方面來講,和我最合得來的應該是
吉田良先生的人偶。良先生更因為同時身為攝影師的關係,跨足了作品接下來的表現舞台。作家當然會希望以自己的視線去呈現作品。但是不管是怎樣的作品,一定會超過作者原本的想法、或是被添加了些新的元素,這是作家無法100%掌控的部分。但可淡的人偶藉由吉田先生的攝影,躍上了一個更寬闊的舞台。

 一方可淡さんの人形の背後には女性特有の物語性というか母権が強く働いた磁場のなかで増殖したメルへンみたいなものを感じるのですが、ある意味それがすごく怖くもあり強い魅力でもあると思います。僕はもともと人形を手元に置かない主義なのですが、可淡さんの人形はとりわけエネルギーが強くて長時間一緒にいることはできないなあと感じました。ファンを熱狂的にさせるのと裏腹の関係にあると思います。胎児のオブジェとか、それはそれで美しいもあるのだけれども、かなり不気味な作品ともいえます。どういう衝動がある作品を産み出したのか興味がありますね。

 在感受到可淡人偶背後,不斷運作的母性磁場中、像童話般不斷增殖、女性特有的故事性的同時,我覺得在某種意義上,這是可怖卻又帶著強烈魅力的。雖然我原本就是不把人偶放在身邊的主義者,但也感到可淡人偶過於強烈的精力,沒辦法長時間待在一起。我想這大概就是可淡迷之所以如此狂熱的原因。像胎兒這樣的題材自有它的美感,不過可淡讓人毛骨悚然的作品卻也不少。我對於究竟是怎樣的創作能量才產生出這樣的作品,感到非常的有興趣。

 ご実家にある人形作品をつぶさに見ていると、ケイ素粘土というマテリアルの宿命でもありますが、一部崩壊始まっている。人形がこわれていくことも潔しとしていた部分が可淡さん自身はもっていたかも知れませんが、今のうちに資料として記録に残すとか、修復ということも考えておく必要がありますね。作品保存を喚起する意味でもこの本が可淡さんの創作活動を旧版にも増して掘り下げて編集しなおされことは非常に意義が大きいと思います。  

 在老家檢視人偶作品的時候,我發現或許是素黏土的宿命吧,已經有一部分開始崩壞了。雖然人偶會毀壞這點,說不定可淡本人也有這樣的意思,但為了現代資料的保存,我覺得有必要考慮修復的事。這本復刊集也有喚起 "保存作品" 這層面的意味,針對舊版內容深入可淡的創作生涯、並重新編輯,意義重大。                                      

■談 

2007年 8月29日/於
プロダクション・アイジー
Production I.G

本篇訪談出自2007年12月24日再版的『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』

arrow
arrow
    全站熱搜

    acjina 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()