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宇宙の塵のようなものが集合して星と成り

そして幾つかの素元子から生物としての命が生まれたものならば、

私たち、アーティストの営みもそこから出発しなければならないのではないでしょうか。

 

宇宙中的塵埃匯集成了星球,接著又從一些微生物中誕生了生命,

我們身為藝術家,也得以此為出發點才行吧。

 

何かを表現するという以前の問題として、存在そのものの設定から

プログラムしていかなければならないと思います。

 

不是作品要表現什麼這樣的老問題,而是必須從作品的存在本身便開始設計了。

 

「素材は何でできているのですか」

「作品是用什麼材料作成的?」

 

個展などの最中よく問われることなのですが、

その一言は、お化けがひたいに突然おふだをはられたような

決定的な一言のように私にはひびいてきます。

 

在個展開設的途中經常這樣被問起,

這句話的震撼之大,就像妖怪額頭上被人貼了符咒一樣。

 

「では貴方は何でできているのでしょうか」と問い返す勇気もなく、

作品の製作過程や苦心談などを何事もないような顔つきで話している

自分に気付きます。神様と勝負をしたところで、どうせ敗者と

決まっているものならば、おとがめを受けない程度に

彼のもち駒あるいは方程式を拝借しながら、思うぞんぶん遊んでみたい。

 

「那您又是如何作成的呢?」不僅沒有反問的勇氣,

只能若無其事的裝作沒聽到那個問題大談製作過程與其中的苦心。

假使怎麼和神一決勝負都不可能成為贏家的話,在不受到懲罰的前提下

真想向祂手裡的棋子或是程式好好借來玩玩。

 

アーティストとしてではなくプレイヤーといなおりながら、

人形、オブジェ、絵画や仮面やオルゴールという名の好奇心、

それがかぎりなく自然に近い存在となるためにはやはり、私自身が

私自身の宇宙なり、神を信じなければならないと思います。


不是身為藝術家,而是作為一名玩家,以人形、object

繪畫、面具和orgel之名的好奇心,為了讓它們更靠近自然體,

讓我自身也成為一個宇宙,果然還是不得不相信神的存在。

 

物を作るということはこの二つの神の共同作業なのではないでしょうか。

仮に神という者がいて万物を創作したのなら、

いったい彼は何を思いながら何の為に造ったのでしょうか。

 

所謂創作,即是這兩位「神」聯手的成果吧,

如果作為一位創作萬物的神真的存在的話,

祂到底是因為什麼想法,又是為了什麼而創作的呢?

 

アーティストはとてもそれに近い行為をしているのだが

彼の作品はなんと愛にみちているのでしょう。

 

藝術家從事著和此非常相近的行為,不過祂的作品總是充滿了愛呢。

 

 

 

天野可淡





本篇文章出自2007年12月24日再版的『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』

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アベルとレダの物語
Abel和Leda的故事

天野可淡



 昔々、まだこの世に夜も昼も無かった頃のお話です。
 這是個在世界還沒有白晝與黑夜時的古老故事。


 すべてのものがあたたかな光に満ちあふれておりました。天上には自信にあふれたお日様と、ほほえみをたやさない奥様のお月様がお日様に寄り添いながらやわらかな空間に浮かんでおりました。地上では仲の良い兄妹が何不自由なく暮らしておりました。

 萬物洋溢在溫暖的陽光下,自信滿滿的太陽公公、與陪伴在身邊始終保持著微笑的月亮太太一同漂浮在柔軟的天空之中。地上則是對親愛的兄妹無拘無束地生活在一起。


 お兄さんの名前はアベルといい、妹の名前はレダといいました。二人はお互いの手櫛で髪をすきあいながらキラキラ光るお日様の光にかざしてみると、そのすき間から幾粒もの金色に輝く砂がこぼれおちました。そしてそんな時、二人は真珠色の肌をちょっと染めてはにかみあうのでした。湖の岸辺に金色の砂を生みだすことが神が二人に定めた仕事でありました。二人の生みだした金色の砂は湖の底まで美しく輝かせ、二人の瞳は湖のように深く、透明な水色をしておりました二人は何百年もの間、その瞳を曇らすこともなく幸せに暮らしておりました。

 哥哥的名子叫做Abel,妹妹則是Leda。當兩人在燦爛的陽光照射下,用手代替梳子互相替對方梳頭時,幾粒閃著金色光芒的沙子便這樣掉了出來。此時,兩人珍珠色的肌膚微微染上紅暈。在湖岸邊生出金色的沙子是神為兄妹倆所規定的工作。兩人生出的金沙即使在湖底仍閃著美麗的光芒。幾百年來兩人幸福的生活著,透明的淺藍色眼瞳就如湖般深邃、不曾混濁。

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カタンドールの "声"
KATAN DOLL的 "聲音"
 
綾辻行人[作家]
 
 
 
 
 「人形」についての豊富な知見や造詣を持っている者ではないので、まずその点をお断わりしておかねばならない。天野可淡という天才人形作家についても、通りいっぺんの知識しか持ち合わせていない。「謎」や「怪奇」「幻想」に囚われた小説の創作を生業としてきた一介の物書きの、カタンドールに対するごく個人的な、偽らざる想いを、ここでは断章風に綴らせていただく。
  
 首先,因為我不是對「人形」擁有豐富見解和知識的人,所以在這一點上要事先說明。關於天野可淡這位天才人形師也是,只敢說對她僅有一小部分的了解。作為以侷束在「謎」和「怪奇」「幻想」這類小說裡,並以此謀生的一介寫書人,在這裡,讓我片斷地寫下對可淡 DOLL 非常個人,不說謊的想法。
 
 
  
 
 可淡の遺した人形たちと対峙して、いつも感じるのは "声" である。物伝うはずのない「彼ら」-とりわけ「彼女ら」-の、それぞれに独特の開き方・閉じ方をした口から発せられる "声"。
 
 和可淡遺留下的人偶們對峙時,一直感覺得到的是 "聲音" 。本來不可能傳達出訊息的「他們」-特別是「她們」,個別以其嘴巴的開合,發出了 "聲音"。
 
 はっきりと耳に聴き取れるわけではない。が、 "声" は囁きであったり叫びであったり呻きであったり、ときには忍びやかな笑いであったりもする。不思議と泣き声を感じることがない。あるとすれば泣き声ではなくて鳴き声、か。
 
 並不是很清楚的從耳朵聽到。但,"聲音" 是私語著、叫喊著、呻吟著,有時是竊竊地笑著。不可思議的是,卻沒有哭泣的聲音。如果有的話,那不是哭泣聲而是鳴叫吧?
  
 この "声"で、いったい彼女らは何を訴えようとしているのだろう。-と、僕はいつも耳を澄まし、目を凝らす。心に虚ろを作る。そうしながら、うつしよの時間(とき)の流れを忘れて立ち尽くす。
  
 她們究竟想用這樣的 "聲音" 來訴求什麼呢?-而我總是一面想著這問題,一邊豎起耳朵,凝聚目光。放空心靈。然後在這期間,忘卻時間的流動站立許久。
 
 

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可淡回想 II  
回想起可淡 II
 
吉田 良 [人形作家]
 

 
「オイ、死ぬぞ!」
「喂、想死啊!」

「あ、やば~」
「阿、糟糕~」

「火気厳禁! ガソリン給油機の下に腰掛けてタバコ吸うか」
「嚴禁煙火! 竟然在加油機下面坐著抽菸」

 くさって落ち込んでいた彼女をバイクの後ろに乗せて奥多摩の山の上までツーリングに行った時のことです。
 這是帶著情緒低落的她坐在摩托車後面,到奧多摩的山上兜風時的事情。

「見晴らしがイイでしょ。スカッとしない」
「視野不錯吧。不覺得很爽快嗎」

「バイクって気持ちいいね。車の免許と一緒にバイクの免許もとるよ。後ろに乗せられてるんじゃヤダヨ」
「摩托車真不錯呢。乾脆和車子的駕照一起考吧。我不喜歡光坐在後面-」

「えッ! やめときなよ。一人でコケたって怪我するよ。子供だっているし、危ないよ」
「诶! 不要這樣。就算你一個人摔車也是會受傷的,更何況你還有孩子,很危險的。」

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「突撃インタヴュー!原作者に聞け」
「突擊訪問!向原作者質問」

 
 
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可淡回想 I  
回想起可淡 I
 

吉田 良 [人形作家]
 
 
 私が天野可淡本人と出会ったのは銀座のギャラリーでの彼女の最初の個展の時、1981年だったと記憶しています。もちろんそれ以前から彼女の存在と人形は知っていました。

 遙記我和可淡本人的初次見面,是1981年在銀座畫廊的展覽會上,同時,那也是她的初次個展。當然在此之前,我早已知道有天野可淡這號人物的存在。

 私と可淡は同世代でほぼ同じ時期に人形を作り始めています。当時、私たちが人形を発表したり販売したりする場として使っていたのが人形のギャラリー.ショップであった代官山.仏蘭西館と奥沢.竹取物語(後に目白に移転)でした。

 我和可淡不僅是同世代,也幾乎是同時期開始人偶的製作。當時,常被我們當作發表作品和販賣的人偶美術商品店,是在代官山的『仏蘭西館』和奥沢的『竹取物語』(後搬遷至目白)。

 私は作り始めの未熟な人形をショップに持ち込み、店主や常連客のアドバイスを受けたりしていました。先輩作家の人形を手にとって見せてもらうのがとても勉強になりました。後に彼女と懐かしく当時のことを話したところ彼女も同じような経験をしていたようです。

 我拿著剛開始還不是很成熟的人偶到店裡,接受店主和常客的建議,觀摩前輩的作品藉此學習,後來和她談到這些令人懷念的往事時,她似乎也和我有同樣的經驗。

 ショップやグループでの展示を繰り返すうちに技量も自信もついて個展での発表を志すようになります。個展は自分だけの作品で会場を満たすのですから大変でもありますが心地よくもあり、個展を繰り返すことで多くの作品を産み出し、作品を前に自問自答したり、多くの意見を聞いたりして成長できます。

 藉由聯合展覽和不斷的在店裡展出後,漸漸的不論是技術也好,自信也好,開始放眼個展為目標。因為個展需要把自己的作品填滿整個展覽會場,自是十分耗費心力,但相對的也比較自在。反覆的開辦個展而不斷創作出作品,在作品前自問自答,聽取其他人的意見,由此成長。

 80年代は人形の世界にとても活気がありました。人形作家の友人たちの個展も多く開催され、デパートでの販売展、美術展示としての企画展もたくさんありました。

 80年代是人偶創作的世界十分活耀的時期。從事人偶創作的朋友們也開了不少個展,另外在百貨公司的販賣展,作為美術展覽這樣的企畫也相當的多。

 

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親愛なる 天野可淡さんへ
給親愛的可淡
 
秋山まほこ[人形作家]
  
 
 私が心から信頼し、尊敬していた人形作家、天野可淡さんが、突然の交通事故で亡くなられてから、もう17年経ちました。
  

 自我打從心底信賴、尊敬的人形作家-天野可淡,因突然的交通事故逝去之後,也已經過了17年了。
  

 否応無しの、別れの悲しみのさなか、私自身も、火の不始末から起こしてしまった火事で、二度と戻らない大切なものを全て失ってしまいました。その後、人形の活動を休止し、夫の仕事に伴って、東洋と西洋が不思議に混ざり合う異国の地、香港で人形制作とは無縁の歳月を送りました。思っても見なかったことが次々に起こり、そのひとつひとつと向き合いながら、ようやくその山をのり越えて今に至っています。
 

 而在承受突然離別所帶來的傷痛之餘,我也曾因為自己不小心而引起的火災,失去了全是無法替代,且非常寶貝的東西。在那之後,我停止了人偶製作、陪伴丈夫的工作,來到了混合東洋與西洋風味、不可思議的異國之地-香港,並在那裡過了一段與人偶製作無緣的歲月。想也沒想過,見也沒見過的事情一一發生,在面對這些的過程中,我終於慢慢走出了傷痛。 

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解かれたガラスのリボン
被解開的玻璃絲帶
 

文/天野可淡

 子供の頃、夜の縁日で母親に手を引かれながら歩いていると、ガラスの風鈴などを売っている夜店があり、そこへ来ると必ず、小さいなガラスビンの中で裸電球の光を受けてキラキラ光る水中花が目にとまったものでした。なんとしても欲しくなり、せがんで買ってもらった宝物のはずなのに、次の日、日の光の中で見るとそれはなぜか色褪せ、そんなはずは無いとビンから取り出して見ても、みずぼらしいただの色紙の塊になってしまっていてがっかりした記憶が有ります。

 記憶中,小時後晚上有廟會的日子,母親會拉著我的手步行到一個賣玻璃風鈴等東西的攤子。這時,我的目光必定會停留在小小的玻璃瓶內,受到燈光照射而閃閃發亮的水中花上。無論如何都想要,好不容易央求母親買給自己的寶物,隔天在陽光下檢視時,發現顏色竟然褪了,心想 "怎麼可能有這種事" 而把它取出來,卻失望的發現已經變成破爛的色紙塊了。

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冨樫義博王子('98)最新資料43
 
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1. Birthday/1966年 4月27日
2. 血液型/A型
3. 職業/たま~にマンガ家
3. 職業/偶~爾當漫畫家

4. お姉さまとオトートくんになんてよばれてるの?/ヨッチャンとか兄貴
4. 兄弟姐妹都怎麼稱呼你?/小義或大哥
5. 「ジャンプ」が好きですか?/う~~~~~~~~~~ん、好きです。
5. 喜歡「JUMP」嗎?/恩~~~~~~~~~~、喜歡。
6. 自分のマンガの中で一番気に入ってるキャラクター/クラフト ーかな。
6. 在自己的漫畫中最喜歡的角色/庫拉法特(靈異e接觸)-吧。

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少年マンガ論 <少年漫畫論>                                                                                
                                                                               
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...
                                                                               
「バトルもの」マンガにおいて、主人公たちはなぜ戦うのか?結論を言う。
在格鬥漫畫中的主人公們究竟為何而戰?從結論說起-
                                                                                                                                                                                                                                             
その「戦い」に、実は意味はない。
這個「戰鬥」,其實並沒有任何意義。

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神経に住む者たちへ―――――――――――――◆ 天野可淡
給住在神經上的…

 

……あるいはもしあなたが風にあこがれて
或許…你是對風有著憧憬,
地下から這い出るセミならば、
而從地底下爬出的蟬
最後の土をかき分けた瞬間、
在撥開最後一塊泥土的瞬間、
地上の目もくらむ光と同時に
令人昏眩的光芒刺入眼裡的同時
足もとに深く広がるやわらかな闇を
一定也對腳下深沉、寬闊而柔軟的黑闇,
あらためて認識するでしょう。
重新認識一番了吧。

 

人々はともすると光と闇のとろけあった
人們往往很容易徬徨於融光明及黑暗於一體的
乳白色の混沌の中にさまよいがちです。
乳白色混沌當中。
私もその中の一人だから常にそれを恐れ、
我也是那之中的一人、所以時常為此而恐懼  
手を動かさずにはいられないのです。
無法任手就這樣靜止不動。

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連載を終えて~ふり返れば敗北宣言-
結束連載 ~寫完一看才發現成了一篇敗戰宣言- 

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造形作家としての天野可淡
作為造型藝術家的天野可淡(1953-1990)

押井 守[映画監督]★インタビュー  

 可淡さんの人形は1990年代の終わりから写真集を通じて知ってはいたのですが、実際の人形をはじめて拝見したのは東京都現代美術館での「球体関節人形展」(2004) の企画をすすめていた時です。ちょうど「イノセンス」という映画の公開を控えていて、「人形」とか「ひとがた」に対する関心が重なった時期でもあります。  

 我大概是在90年代快要結束時,透過寫真集認識可淡人偶的,但實際上、親眼拜見可淡的作品,卻是我在東京都現代美術館進行「球體關節人形展」(2004)企畫的時候。剛好是「イノセンス」準備上映,各界開始對「人形 (人偶)」和「ひとがた」等議題引起關注的時期。

※「ひとがた」:人形的另一種說法

 そもそも人形に対する自分の興味の原点を遡れば、学生時代に遭遇したハンス・ベルメールの人形写真に行きつくわけですが、この頃から僕は、人形に対する興味の持ち方がまっとうでなかったと思っています。はたしてベルメールの球体関節人形は人形なのかオブジェなのか、という問いがあるわけて、ベルメール自身、人形作家というよりは写真家であり画家ですよね。人形自体をつくる事が最終目的ではなく、自分のイマジネーションを表現する素材としてつくったわけで、僕も同様な視点で人形への関心を抱き続けてきました。

 若要追溯我本身對人偶興趣的起點,那應該是我在學生時代遇見的
Hans Bellmer (1902-1975) 人偶的寫真作品,我想就是從那時候開始,我對人偶有了異常高度的興趣。也存在像 " Bellmer 的球體關節人形到底是人偶呢?還是創作的目的、對象而已?" 這樣的疑問,可是與其說 Bellmer 是人偶作家、不如說是攝影師或是畫家來的更恰當吧,製作人偶並不是最終目的,而是把它作為一個 "表現自己想像力" 的素材之一,至於我也是一直抱持著同樣的觀點。

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