解かれたガラスのリボン
被解開的玻璃絲帶
 

文/天野可淡

 子供の頃、夜の縁日で母親に手を引かれながら歩いていると、ガラスの風鈴などを売っている夜店があり、そこへ来ると必ず、小さいなガラスビンの中で裸電球の光を受けてキラキラ光る水中花が目にとまったものでした。なんとしても欲しくなり、せがんで買ってもらった宝物のはずなのに、次の日、日の光の中で見るとそれはなぜか色褪せ、そんなはずは無いとビンから取り出して見ても、みずぼらしいただの色紙の塊になってしまっていてがっかりした記憶が有ります。

 記憶中,小時後晚上有廟會的日子,母親會拉著我的手步行到一個賣玻璃風鈴等東西的攤子。這時,我的目光必定會停留在小小的玻璃瓶內,受到燈光照射而閃閃發亮的水中花上。無論如何都想要,好不容易央求母親買給自己的寶物,隔天在陽光下檢視時,發現顏色竟然褪了,心想 "怎麼可能有這種事" 而把它取出來,卻失望的發現已經變成破爛的色紙塊了。

 大人となった今よりも子供の頃の方が、夢をこわされるという事について潔癖であった様に思われます。お祭りや花火大会の次の日などにそこへ遊びに行きますと、昨日の色鮮やかな興奮がさめやらぬだけに、自分の夢に裏切られたような悲しい思いをしたものでした。

 我想比起成為大人的現在,還是孩提的時候,對夢想被破壞一事有著潔癖吧。祭典和煙花大會結束後的隔日,再到那些地方去玩時,只是昨日的興奮感頓時清醒而已,就好像被自己的夢給背叛似的成了悲哀的回憶。

 人形を愛するということは、その人の年齢にかかわらず、子供の頃のままになることだと思います、あらゆる社会の混沌の中から人形と向かい合う時、人は皆、子供となります。そして、人と人形は鏡一枚を隔てて同化する事ができるのです。鏡一枚…それは人形は神から死を禁止されているということです。夢を裏切らないという代償に、死を神に捧げたという事です。

 我覺得喜歡人偶這件事,和一個人的年齡是沒有關係的,只是想回歸赤子之心罷了。在渾沌的社會中面對著人偶時,人都會變成孩提時的模樣。然後,人和人偶就能隔著一面鏡子同化。一面鏡子…這是人偶被神禁止死亡的事情。作為不背叛夢的代價,將死亡的權利獻給了神。

 しかしながら、人間とはエゴイスティックな生き物です。裏きりの無い、安心の中での愛にはいつか欠伸をします。愛するだけの一方的な愛にはいつか疲れ、その対象を置き去りにするのです。

 然而,人類是一種利己的生物。遲早有一天會對這種不會被背叛、令人放心的愛開始打呵欠。只有一方的愛總會有疲倦的時候,於是便將它隨手扔去。

 そして彼女たちはいつしか忘れ去られ、蔵の中に捨てられてしまいます。それは人形たちにとって、死よりも恐ろしい出来事です。

 然後她們在不知不覺中被忘記,最後被捨棄在倉庫中。這對人偶們來說,是比死還要可怕的事情。

 そんな悲劇が起こることの無いように、私はあえて彼女たちのガラスのリボンを解きます。人に愛されるだけの人形ではなく、人に愛する事のできる人形に。常に話しかけ、耳をかたむけ、時には人の心に謎をかける人形に。注意深く、彼女のガラスのリボンを解くのです。それが私の仕事だから。

 為了不讓這樣的悲劇發生,我硬是解開了她們的玻璃絲帶。讓她們成為不只是被人所愛,也會對人類回應愛,可以隨時向人們訴說、能傾聽人們的話語,有時還會對人心丟出謎語的人偶。非常注意的,解開了她們的玻璃絲帶。因為這就是我的工作。





本篇文章出自2007年8月30日再版的『KATAN DOLL』

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