可淡回想 I  
回想起可淡 I
 

吉田 良 [人形作家]
 
 
 私が天野可淡本人と出会ったのは銀座のギャラリーでの彼女の最初の個展の時、1981年だったと記憶しています。もちろんそれ以前から彼女の存在と人形は知っていました。

 遙記我和可淡本人的初次見面,是1981年在銀座畫廊的展覽會上,同時,那也是她的初次個展。當然在此之前,我早已知道有天野可淡這號人物的存在。

 私と可淡は同世代でほぼ同じ時期に人形を作り始めています。当時、私たちが人形を発表したり販売したりする場として使っていたのが人形のギャラリー.ショップであった代官山.仏蘭西館と奥沢.竹取物語(後に目白に移転)でした。

 我和可淡不僅是同世代,也幾乎是同時期開始人偶的製作。當時,常被我們當作發表作品和販賣的人偶美術商品店,是在代官山的『仏蘭西館』和奥沢的『竹取物語』(後搬遷至目白)。

 私は作り始めの未熟な人形をショップに持ち込み、店主や常連客のアドバイスを受けたりしていました。先輩作家の人形を手にとって見せてもらうのがとても勉強になりました。後に彼女と懐かしく当時のことを話したところ彼女も同じような経験をしていたようです。

 我拿著剛開始還不是很成熟的人偶到店裡,接受店主和常客的建議,觀摩前輩的作品藉此學習,後來和她談到這些令人懷念的往事時,她似乎也和我有同樣的經驗。

 ショップやグループでの展示を繰り返すうちに技量も自信もついて個展での発表を志すようになります。個展は自分だけの作品で会場を満たすのですから大変でもありますが心地よくもあり、個展を繰り返すことで多くの作品を産み出し、作品を前に自問自答したり、多くの意見を聞いたりして成長できます。

 藉由聯合展覽和不斷的在店裡展出後,漸漸的不論是技術也好,自信也好,開始放眼個展為目標。因為個展需要把自己的作品填滿整個展覽會場,自是十分耗費心力,但相對的也比較自在。反覆的開辦個展而不斷創作出作品,在作品前自問自答,聽取其他人的意見,由此成長。

 80年代は人形の世界にとても活気がありました。人形作家の友人たちの個展も多く開催され、デパートでの販売展、美術展示としての企画展もたくさんありました。

 80年代是人偶創作的世界十分活耀的時期。從事人偶創作的朋友們也開了不少個展,另外在百貨公司的販賣展,作為美術展覽這樣的企畫也相當的多。

 私自身1983年にはビクマリオンを設立し積極的に個展等をこなし、活発に創作活動をしていた時期です。

 而我本身則是於1983年開設了 Pygmalion 人形教室,積極的舉辦個展等,是創作活動十分活躍地時期。

 天野可淡は1981年の個展以降80年代を疾走しました、1990年11月1日の朝、突然天に召されるまで……

 而可淡從1981年的個展以降,在80年代中急速成長,然後在1990年11月1日早晨,突然的蒙主寵召……
 

   

 
 KATAN DOLLの撮影を始めたのは1985年11月、青山にあるドイツ文化会館OAGハウスでの個展の時からです。

 可淡人偶的攝影開始於1985年11月、在青山德國文化會館OAG大樓,可淡的個展上。

 私はこの年の5月にデパートでの人形展のコーディネートの仕事を請けました。もちろん可淡にも出品を依頼しました。この仕事で彼女と久しぶりに話す機会があり、作品や制作の苦労について共感しあい、お互いの成長も確認しました。同年の11月に私も4回目の個展をひかえ、お互いの人形の方向性や展開について何度か語り合い励ましあった記憶があります。

 在那年五月的時候,我接受了百貨公司人偶展的統籌工作。當然也向可淡出借了作品。藉著這個工作,我和她有了久違的對談機會,像關於創作作品時辛勞的共感、還有互相確認對方的成長等。同年的11月,我也正好要開第四回的個展,印象中那時聊了幾次關於彼此人偶的方向性和發展,並互相鼓勵。

 

  

  
 私たちの創作する人形作品は「商品化された人形」ではないのですが人形と言う過去からの概念にとらわれて、先人観で作品を見られることに抵抗がありました。ひとがたであるが故の宿命といったものでしょうか。自由に心に湧き上がるものを人の形にする、その行為は美を求め、場合によっては新しい価値観を創作する、絵画や彫刻となんら変わらない芸術活動です。

 我們所創作的人偶作品雖然不是「產品化的人偶」,但如果被既有的人偶概念綁住,導致觀賞者都帶著先入為主的觀念來看,我們還是會有所抗拒。不知道這該不該算是人形作品必須背負的宿命?自由地將內心湧現的想法化為人形,並且在這樣的行為中追求美感,有時還會創造出新的價值觀,這種藝術活動跟繪畫或雕刻並沒有任何分別。

 彼女の名刺にはドールアーティスト.天野可淡とありました。そこに彼女の意気込みと潔さを感じました。「いつか展示会でベルメール作品の隣に展示される時が来るかもしれないよ、恥じない仕事をしよう」と言っていました。そして確かに彼女のことばどおりにその時は訪れたのです。

 從她名片上印著 "Doll Artist.天野可淡"的字樣中,可以感覺到她的幹勁和簡潔明瞭。「不曉得哪一天會在 Bellmer 作品的旁邊展出,要以不愧於此的態度工作」。然後就像她說的那樣,那一天真的來臨了。
 

 

   
 1985年のその個展会場で見た彼女の作品たちは大きく成長していました。作品を創る視点が数年前とは明らかに変化していて、私は彼女の作品を写真に撮りたい衝動に駆られました。

 在1985年個展見到她的作品時,已有了相當大幅度的成長。作品創作的視點也和數年前有明顯的變化,"想替她的作品拍照"這樣的衝動驅使著我。

 KATAN DOLLの撮影はここから始まりました。
 可淡人偶的攝影就是從這裡開始的。

 プリントされた写真を見て彼女は喜びました「どの写真にも写るべきものが写っているよ」と。人形の写真をどう撮影すればよいのか、将来本を作るとしたらどのような本にしたいのか私たちは話し合いました。

 看了印刷出來的照片她很開心「不管哪張照片都把該顯現的東西拍出來了喲」。我們還討論了人偶的寫真要怎樣拍攝比較好,如果將來要做成書本的話想做成怎樣的形式等話題。

「従来のスタジオで撮影された商品写真のようなのは嫌い」

「不喜歡一直以來像在攝影棚內拍攝的商品寫真那樣」

 
「人形は公共の場に置かれる彫刻とは違って個人に所有されることが多い。所有者それぞれのイメージの世界に置かれ、そこにあってこそ生きてくるのだから……」
 
 「人偶和在公共場放置的雕刻不一樣,多數是個人擁有。正因為存放在所有者各自想像的世界中才活著…」
 
「鏡の中の世界なんかもね」
「像是鏡中的世界那樣」
 
「ちょっとドラマチックな方が楽しいと思うよ。何度も見返せる本にしたい」
「有點像戲劇呈現的方式會比較有趣。想做成不管翻幾次都還想再看一遍的書」
 
「おおげさな作品集ではなく可愛い絵本のような本が良いかな」
「不是大本的作品集,而像是可愛的繪本那樣的好」
 
「この赤っぽい色が好き、ほの暗い電球の光」
「喜歡這個偏紅的顏色、燈泡昏暗的光芒」
 
「あなたはファンタジーの作家でいいのかな」
「把妳寫成幻想派作家可以嗎?」

「うん、そうだよ!」
「嗯、沒錯!」
 
 
   
 そして4年後の1989年『KATAN DOLL』の出版が刊行されました。出版以降多くの少女たちが、あるいは少女の心を持った大人たちがこの本を手にしました。

  然後,四年後的1989年『KATAN DOLL』發行了。出版以降多數的少女們,或者說是擁有少女心境的大人們將這本書拿到了手中。
 
 可淡によって産み出された謎めいた人形たちは少女の心の奥底にあるガラスのリボンを解き放つことができたのでしょうか……

 由可淡所創造出來充滿神秘的人偶群,是否成功地解開了少女心底深處的玻璃絲帶呢……
 
 
 
(『KATAN DOLL fantasm』につづく)
 
 
本篇文章出自2007年8月30日再版的『KATAN DOLL』
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