カタンドールの "声"
KATAN DOLL的 "聲音"
 
綾辻行人[作家]
 
 
 
 
 「人形」についての豊富な知見や造詣を持っている者ではないので、まずその点をお断わりしておかねばならない。天野可淡という天才人形作家についても、通りいっぺんの知識しか持ち合わせていない。「謎」や「怪奇」「幻想」に囚われた小説の創作を生業としてきた一介の物書きの、カタンドールに対するごく個人的な、偽らざる想いを、ここでは断章風に綴らせていただく。
  
 首先,因為我不是對「人形」擁有豐富見解和知識的人,所以在這一點上要事先說明。關於天野可淡這位天才人形師也是,只敢說對她僅有一小部分的了解。作為以侷束在「謎」和「怪奇」「幻想」這類小說裡,並以此謀生的一介寫書人,在這裡,讓我片斷地寫下對可淡 DOLL 非常個人,不說謊的想法。
 
 
  
 
 可淡の遺した人形たちと対峙して、いつも感じるのは "声" である。物伝うはずのない「彼ら」-とりわけ「彼女ら」-の、それぞれに独特の開き方・閉じ方をした口から発せられる "声"。
 
 和可淡遺留下的人偶們對峙時,一直感覺得到的是 "聲音" 。本來不可能傳達出訊息的「他們」-特別是「她們」,個別以其嘴巴的開合,發出了 "聲音"。
 
 はっきりと耳に聴き取れるわけではない。が、 "声" は囁きであったり叫びであったり呻きであったり、ときには忍びやかな笑いであったりもする。不思議と泣き声を感じることがない。あるとすれば泣き声ではなくて鳴き声、か。
 
 並不是很清楚的從耳朵聽到。但,"聲音" 是私語著、叫喊著、呻吟著,有時是竊竊地笑著。不可思議的是,卻沒有哭泣的聲音。如果有的話,那不是哭泣聲而是鳴叫吧?
  
 この "声"で、いったい彼女らは何を訴えようとしているのだろう。-と、僕はいつも耳を澄まし、目を凝らす。心に虚ろを作る。そうしながら、うつしよの時間(とき)の流れを忘れて立ち尽くす。
  
 她們究竟想用這樣的 "聲音" 來訴求什麼呢?-而我總是一面想著這問題,一邊豎起耳朵,凝聚目光。放空心靈。然後在這期間,忘卻時間的流動站立許久。
 
 
 
 
 人間(ひと)は誰しも、生から死へと移ろいゆく時間の途上に在る。移ろう人間の手によって創り出された人形たちはしかし、移ろわぬものとして(あるいはそうあることを目指して)、光と闇のあわいに在りつづける。
 
 人類都是在那條由生向死,不斷推移的時間帶上存在著。然而,透過時間持續推移的人類雙手所創造出來的人偶們,卻是以全然超脫時間迭替的姿態(或是以此為目標),持續地存在於光與闇之間。
 
 「まるで生きているかのような」という定番の形容は、ことに可淡が創ったような人形たちについてはまったく相応しくない。彼女らの本来的な属性は "死" の側にある。彼女らは死から生まれ、死を生きている。そういった "死の生" "生なきものの生" にとっては当然。死は終焉ではなく永遠だろう。だからきっと、カタンドールと対峙するという行為は、 "死という永遠" の恐ろしくも甘美な疑似体験なのだ。
 
 「簡直像活著一樣」這樣常見的形容,對可淡創造出的人偶可說是完全不相稱的。原本她們的屬性就是位於 "死亡" 的那一側。他們從死裡出生,在死裡活著。對她們這種 "死的生命" "沒有生命的生命" 來說,本就是理所當然。死亡不是末日,而是永恆。所以跟可淡的人偶對峙的這種行為,想必就像是在模擬體驗 "死亡永恆" 這種既可怖又甜美的境界。
 
 
 
 
 カタンドールを見て、「美しい」と感じることはない。と伝うと語弊があるかもしれないが、つまり「美しい」のひと言だけでは掬い取りきれぬものが、あまりにも彼女らには備わりすぎているのである。
 
 看著可淡的人偶,並不會有「美」這樣的感覺。這樣說或許有些語病,即是她們具備了太多內涵,只用「美」這個字是概括不了的。

 これはしかし、「過剰」とは逆の方向にあるものだ。何かどうしようもない欠落、そして喪失。それらを存在の基調として持ちながらも、では聞こえてくる "声" がそれゆえの哀しみや嘆きなのかというと、決してそうでもない。-そんな気がする。
 
 但這種內涵卻與『過剩』相反。那是一種無可奈何的缺陷與失落。儘管她們是以這樣的內涵作為存在的基調,但我所聽到的那些聲音,卻又絕對不是為了這些缺陷或失落而發出的悲傷與嘆息。我是這麼覺得的。
 
 
 
 
 夭逝した天才が生あるものとして、おりおりに抱いた情念や思考、人生のありよう等を、彼女らの "声" から探り出したい、という気持ちにはあまりならない。彼女らを創ったのは確かに天野可淡という人間だったが、彼女らはもはやその事実からも離れて、いや、その事実をも呑み込んでみずからの内で透明化してしまったうえで、彼女らそのものとしてそこに在る。-そんな気もする。
 
 我不太會想從這些-作為早逝的天才創造出的人偶所發出的 "聲音" 中,摸索創作者的感情、想法、和她經歷的人生等。創造出她們的確實是一位叫做天野可淡的人,但她們也已從這個事實中離開,不,她們是將這個事實接納,然後從自身的內部開始同化,而她們本身則存在於這之上。-我也有這種感覺。
 
 もしかしたら彼女らは、この世界の裏側にひそむ、僕たちには絶対にしりようのない秘密を知り、それを僕だけにこそっりと伝えようとしているのかもしれない。-そんなふうに思えてしまうことも、往々にしてある。
 
 我常常這樣想,如果她們潛伏在這世界的裏面,說不定會偷偷的告訴我,那些對我們來說決對不可能知道的秘密。
 
 可淡の人形たちと対峙して、さまざまな "声" に耳を澄まして、ときにはそこに "言葉" を読み取って...そうして僕はこれまで、いくつかの物語を紡いでみたこともある。しかしながら、それらはどれもが畢竟、彼女らのではなくて僕自身の物語だったのだろう。そんな自覚も、もちろんある。
 
 過去我也曾經跟可淡的人偶對峙,側耳傾聽各式各樣的『聲音』、不時還從其中聽出『話語』,並試著編織成故事。然而,那些畢竟都只是我自身的故事,而不是她們的。像這樣的自覺,當然還是有的。 
 
 見る者によって、その者のそのときどきの心のありようによって、彼女らの "声" に異なる色を待ち "言葉" を持つ-というのが、月並みではあるがやはり一面の真実に違いない。だが、これはあくまでも「一面の」にすぎない。 
 
 隨著觀賞的人不同,觀賞時的心境不同,她們的『聲音』就會有著不同的色彩,有著不同的『話語』-這種說法很平凡,但肯定也是真相的其中一面。然而也就只是其中的一面。
 
 彼女らと対峙していて、最後に決まって聞こえてくるのは、「何故わたしはこうしてここに在るのか」という切実な問い返しだ。いつだって僕はそれに答えられず、茫然とそして陶然とまた、自分自身の「ここ」に立ち尽くすしかないのである。
 
 和她們對峙時,最後聽到的必然是「為何我會以這種型態存在於此?」這樣深刻的質問。不管何時我都無法回答這個問題,只能茫然若失,卻又陶然自得的,呆立在自身的「此時此地」之中。
 
 
  
 
 
 
本篇文章出自2007年12月24日再版的『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』
 
 
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